「忘れない」、けれど前を向く=ソンミ村虐殺事件の生存者―ベトナム終戦50年 2025年04月28日 06時20分

【ティンケ(ベトナム)時事】ベトナム戦争中の1968年3月16日、ベトナム中部クアンガイ省ソンミ(現ティンケ)で、「北ベトナム寄り」と疑われた高齢者や女性、子どもを含む504人が米兵に殺される「ソンミ村虐殺事件」が起きた。生存者は家族を失った悲しみを「一生忘れられない」としつつ、対米関係の改善を前向きに捉えようとしている。
◇身をていした母
生存者の一人で虐殺事件記念館元館長のファム・タイン・コンさん(67)は、避難壕(ごう)に手りゅう弾を投げ込まれ、母と姉、弟、妹2人を失った。1人生き残ったコンさんは「起き上がり、母と姉や弟たちが全員亡くなったことを知ってショックだった」と振り返る。
早朝、集落に米兵が突然やって来た。母は朝食を作っていた。自宅内に造った壕に逃げ込んだが、すぐに見つかった。米兵はコンさん一家の人数を確認し、壕に戻るよう命令。母は手りゅう弾が投げ込まれると察し、自分が盾になるため姉とコンさんを先に行かせた。「母が身をていしてくれたおかげで助かった」と今も信じている。
米兵は集落で女性や老人を水路に集め、銃などでなぎ倒した。米兵が去った後には「血と炎」しか残っていなかったという。
事件後、コンさんは親類の家に身を寄せた。「孤独感でいっぱいだった。戦争で戦うのは軍人同士。民間人の子どもや老人を殺すのは尋常じゃない」と語気を強める。
当時はもちろん、米国人を心の底から憎んだ。しかし、米国内にも反戦運動があったと知り、「全員が悪いわけではない」と考えるように。子どもや孫に恵まれた今は「将来に向かって楽しい生活を送ろうと思っている」という。
◇「今は恨まない」
ボー・カオ・ロイさん(72)は米兵が来た時、母の指示で近くを流れる川の中に身を潜めた。母と義姉、幼いおいの3人が避難壕に逃れたが、しばらくして村に戻ると、刺し殺された母の姿が目に入った。逃げ惑ったのか、義姉とおいの亡きがらは別の壕で見つかった。遺体と向き合った時は「死にたいくらい悲しく、たまらなかった」という。
事件後、ロイさんは南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)に身を投じて米軍と戦い、「兵士」として終戦を迎えた。だが、半世紀がたち、恨みは少しずつ薄れた。
米越関係は近年、著しく改善し、米国は今やベトナムにとって重要な貿易相手国だ。「虐殺の事実が消えることはないが、平和になり(ベトナムは)国として米国との協力関係を築いた。今は憎んでいない」と話すロイさん。祖国の発展のため、友好関係の強化を望んでいる。