ペルーのフジモリ元大統領死去、86歳=南米初の日系人大統領―左翼ゲリラ掃討、獄中生活も 2024年09月12日 08時45分
【サンパウロ時事】1990年に日系人としては南米で初めて大統領に就任したペルーのアルベルト・フジモリ氏が11日、死去した。86歳だった。地元メディアによると、首都リマの自宅で息を引き取った。長女のケイコ氏はフェイスブックに「長きにわたるがんとの闘いの末、父は先ほど神に召された。ありがとう、お父さん」と書き込んだ。
フジモリ氏の遺体は12日からリマの国立博物館に安置された後、14日には墓地へ移される。ケイコ氏は「直接別れを告げたい全ての人をお待ちしている」と伝えた。
フジモリ氏は10年間の在任中、日本大使公邸人質事件を武力で解決したほか、インフレ収束や左翼ゲリラ掃討で成果を挙げた。だが、側近の汚職をきっかけに退任して以降は立場が一変。人権侵害の罪に問われ、事実上の亡命先の日本から帰国を試みた2005年11月以降は、23年12月に恩赦で釈放されるまでのほとんどの期間を獄中で過ごした。今年7月には、26年に予定される大統領選に再出馬する意向を表明していた。
ペルーに移住した熊本県出身の両親の下に生まれた。日本国籍も有し、日本名は藤森謙也。国立モリナ農科大で学び、母校の教授や学長も務めた。初挑戦した90年大統領選の決選投票で、後のノーベル賞作家バルガス・リョサ氏に勝利。人口の1%に満たない日系社会から、国家元首に上り詰めた。
公共工事による農村の貧困対策や経済の安定化に取り組んだが、その強引な政治手法は一方で「独裁」と批判も浴びた。96年、左翼ゲリラ「トゥパク・アマル革命運動(MRTA)」の武装集団がリマの日本大使公邸を襲撃し、当初600人以上を人質に立てこもった事件では、日本政府の意向に反して軍特殊部隊による突入を決断。4カ月に及ぶこう着状態を打ち破り、残った人質71人を救出した。
2000年に3選を果たした直後、側近の不正が発覚。外遊先の日本から辞表を提出し、実質的な亡命生活に入った。
ペルー国会で公職追放が決議されても無罪を主張し、06年大統領選出馬を表明するなど権力への執着も見せたが、日本から祖国へ戻る途中のチリで拘束された。自宅軟禁中の06年に日本の女性実業家と結婚。07年には日本の参院選にも出馬し落選した。同年9月にペルーへ身柄を引き渡され、在任中に市民虐殺事件に関与した罪で禁錮25年が確定した。
収監されたリマ市内の国家警察施設では、うつ病やがん、血圧異常に悩まされ、入退院を繰り返した。17年末に当時のクチンスキ大統領が健康上の理由から恩赦を決定すると、国民に向けて謝罪メッセージを発表。恩赦を無効とする裁判所の判断で約1年後に再収監されたが、憲法裁は23年12月に公表した判決で即時釈放を命じ、再び自由の身となった。