庶民的な人柄、世界を魅了=フランシスコ教皇 2025年04月21日 19時11分

88歳で死去したフランシスコ・ローマ教皇は、庶民的な人柄で世界を魅了し、「貧者、弱者のためのカトリック教会」というイメージを取り戻した。ミサに集う熱心な信者の多さから「ロックスター」の異名も。その影響力は宗教界にとどまらず、時に国際政治をも動かした。
父親は鉄道会社勤務、母親は主婦と、南米アルゼンチンでごく普通の家庭に育った。学業の傍ら、清掃員からナイトクラブの用心棒まで経験。ぜいたくを避け、高位の聖職者になってもアパートに住み続けた。移動には専用車でなく、バスや地下鉄を使った。
2013年、退位したベネディクト16世の後を継ぐと、すぐさま存在感を発揮。北アフリカからの移民・難民が押し寄せるイタリア最南端ランペドゥーザ島を訪れ、命懸けの航海で多数の犠牲者が出ている現実に警鐘を鳴らした。ギリシャ東部レスボス島への訪問では、イスラム教徒の難民12人を連れてローマに戻った。
米誌タイムは13年、教皇を「今年の人(パーソン・オブ・ザ・イヤー)」に選んだ。聖職者による未成年者への性的虐待などで教会に幻滅していた「何百万という人々をたちまち引きつけた」(同誌)からだ。
ベネディクト16世の下、バチカン(ローマ教皇庁)では機密文書漏えい事件やマネーロンダリング(資金洗浄)疑惑などが相次いだ。失墜した信頼の回復に向け、フランシスコ教皇が果たした役割は大きい。
1961年に断交した米国とキューバの仲介役を務め、54年ぶりの国交回復にこぎ着けると、名声はさらに高まった。各国首脳は、国際会議で発信される教皇のメッセージに聞き入った。
16年には、強硬な不法移民対策を唱える米大統領就任前のトランプ氏について「架け橋でなく壁を築こうとする者は、キリスト教徒でない」と痛烈に批判。同氏の猛反発を買う一幕があった。
日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師フランシスコ・ザビエルらが創設したイエズス会の出身。原爆投下後の長崎で撮影され、亡き幼子の火葬を待つ男児の姿と伝わる写真「焼き場に立つ少年」に心動かされた教皇は19年11月、待望の訪日を果たす。短い滞在だったが、被爆者や平和運動に携わる若者らと面会し、深い感銘を残した。
大のサッカーファン。南米クラブ王者を決めるリベルタドーレス杯で、幼少時から応援してきたアルゼンチンのサン・ロレンソが初優勝した14年には、選手らが優勝杯をバチカンに運び、喜びを分かち合った。
約3万人が弾圧で犠牲となったアルゼンチン軍事政権(76~83年)を巡り、教皇は当時協力関係にあったのではと疑う声が一時あった。しかし、ノーベル平和賞を受賞した同国の人権活動家アドルフォ・ペレス・エスキベル氏は「教皇は軍政に加担も協力もしていない」と否定している。(パリ時事)。
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